会話は相手が楽しくても自分が楽しくなければその関係はすぐに終わってしまう。
普段の会話や飲み会での雑談でときどき感じるのは、相手に気持ちよくしゃべってもらうことは仲良くなるために大切なコミュニケーション方法のひとつだけれども、それは相手が気持ち良くなれても、やりすぎると自分にとって得はないなあということだ。
人によって考え方は違うことを知る
人というのは不思議なもので、相手が自分と違う意見を持っていると、自分の意見に囲い込もうとするものだ。
そうやって仲間を作って陣地を取り合い、それに共感して入り込む人もいる。
ただ、そういう仲の良くなり方だと、自分は本当に得をしないし、逆にストレスになることだってある。
会話をしていて一番楽しいときって、相手と自分が本当に共感できることや興味を持っているものに対して熱く語れるときだ。
一番自然で、安定して楽しく喋れる。
ただ、人と考えていることがまったく一緒になるなんてことはまずない。
そうして考え方が合わないときに、誰かが他人のことを中に取り込もうとする瞬間、ひずみが生まれて急に殺伐となってしまう。
みんな認められたい
なんでこうなってしまうのかと考えれば、それはみんな誰しもが認められたいからだ。
他人を自分と同じ考えにして気持ちよくなりたいという欲求はそう簡単に止められるものではない。
だとしたら、相手に気を使って取り込まれるのではなく、自分の立ち位置を守りながら相手に気遣いや思いやりを持てたほうが、自分も幸せになれるのではないだろうか。
考え方は違うかもしれないけれど、お互い認め合える関係になって、それを維持し続けられたらお互いにとって幸せなことだなと、そう感じるようになった。
自分のことをわかってもらおうとすると虚しい
僕は昔、他人と意見が食い違ったときに、自分のことをわかってもらおうと頑張りすぎていたことがある。
そうやってきて思ったのは、それには必要以上に体力を使うということ、それに、理解を得られたとしても他人の何かを犠牲にしたような気がして、虚しくなっていた。
自分の正しいと思っている意見を相手に教えて理解してもらえれば、それが他人を幸せにすることだ、と思っていたとしたらそれは全く違っていて、それは自分の認められたい感情からくるただのエゴだということに気づいてしまったのだった。
僕がそう思うようになってから、誰かを満足させるためだけに話すことはやめた。
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