慣れ親しんだ田舎から東京へ出てきて社会人になった。
あんなに憧れていたサラリーマンだったけど、「あれ、なんだか違うな」と違和感を感じたのはまだ慣れていないせいだろうか。
その違和感は1年たっても払拭されずに とうとう転職してしまった。
「いい会社」
僕が新卒で入ったのは、世間では認められているザ・日本の大手企業とも言われる会社で評判は悪くない。むしろ優良企業と言われる。
だけど そんな社会で認められたいわゆる「いい会社」というものに自分の体が適応していないのが、ちゃんとした人間としてふさわしくないことを教えてくれているようで、悲しくなった。
朝 決まった時間に起きて、スーツに袖を通して、ネクタイを閉めて、カバンを持って、胸ポケットにメモ帳をしまい、家のカギをかけて満員電車に乗る。
会社に着いたらメールをチェックして、上司に今日の仕事を聞き、サーバールームにこもって延々と同じ作業、時間があまったら適当に時間を潰して、時間になったらそそくさと帰る。
この毎日 ほぼ決まったルーティーンをこなすことが自分にとっては針穴に糸を通すようで、しんどくてたまらなかった。
でも周りを見てみると ちゃんとしているように見えて、みんなたくましいなーなんて思いながら毎日をこなしていたんだけど。
そんな泥のような日常は ある日を境にぱったりなくなった。
どうせこんな日が一生続くならどうなっても辛さは変わらない。転職してしまえ、と投げやりな気持ちですぐに行動を始めたのが効いたようだ。
1ヶ月後からは別の会社で働けることが決まった。
そこは今まで通勤していた50階もの高層ビルとは違い、小さな数階建ての雑居ビル。
部屋はマンションの一室のような感じで 急に小さくて不便なところに来てしまったようにも思うけど、みじめな気持ちはひとつもない。
そこには本当に自分なりの使命を感じて働いている人たちがたくさんいたし、ちゃんとしなくても良い具合がほど良くて、初めて深呼吸して外の空気を吸えたみたいだ。
なによりも仕事でプログラミングが活かせるし、昔からインターネットが好きだった僕にはたまらなく刺激的で、「ああ、こんなところに自分と同じ人たちが隠れていたのか」という感じだった。
コンプレックス
今では仮に「オマエはダメだ」なんて言われたとしても、「はいはい」で流せるようになったけど、昔はコンプレックスの塊で人と違うことがあれば劣等感を抱いていたと思う。
今振り返って初めて言えることだけど、思えばバカらしいことで疲弊していたな。
「ふつう」ってなんだろうかと考えれば、たまたまその時代に合っているか、今いる場所に合っているかどうかを示すひとつの指標くらいでしかない。
国語、算数、理科、社会、音楽、体育、図工といった教科に ひとつでも得意なものが繋がっていれば自分を保てると思うけど、仮に全部苦手だって人もいる。
そんなときに「自分なんて何をやってもダメだなー」なんてことを思ってしまうのだけど、それは違う。
代わりに周りを笑わせることができたり 人に何かを伝えるのが上手だったり、商売がめちゃくちゃうまかったりと、得意なことが必ずあって、その得意なことがたまたまカリキュラムになかっただけと考えるべきだ。
そもそも昔の大企業信仰、そしてそれにふさわしい人材を育成するために逆算して作られた学校の教育や受験は、社会の変化が大きすぎて もう時代遅れになっている。
とくにちょっと前までは決められたレールがあって、言われたとおりに進めば将来が保証されていたから 外れたらもったいなかったかもしれないけど、今はレールにそっても外れても別にそこまでクリティカルな問題ではないと思う。
常識的な世界でテンプレートにしたがって生きることに支障がなければ そのままついていってもいいけど、もし万が一なんか違うなーとか思ってたら、それはそれで別にたいした問題ではない。
大多数に近い感性を持っていたら、それは仲間が多くて生きやすい。ただそれだけのことだ。
東京を見てみたって住んでる地域ごとに 性質の同じ人が集まったり 街並みに個性がでてくるように、同じ属性値を持つものは一箇所に集まりやすい。
自分の理想とする生き方があるなら そこへ飛び込んでみるのもひとつの手なんじゃないかと思う。