昔から「ちゃんとやる」というのができなかった。
夏休みの宿題みたいに あらかじめ誰かが決めた手順があればルールを守ることはできるのだけど、仕事の場合は例えば成果物を提出しても、売り上げとか人員調整とか社内共有とか、明確なゴールは定められていなくても最後の詰めのようなものが必要になってきて、ルールとか調整とか出てきた瞬間に異常につまらなくなってやる気が消え失せてしまう。
だけどみんなはちゃんとそれをやっているのか、たくましいなーと思ってた。
詰めの甘さ
それはこのブログについても現れていて、文章を書くのは好きなんだけど、お金を稼ぐために広告をはるとか、マネタイズとかコンバージョンとか考え始めたらもうダメだ。
だけどフリーランスの身で収入も必要だしちゃんとやったほうがいいのは間違いないと思っていて、でもめんどくさくて最後の詰めのところで手を抜いてもったいないことをしてしまっている。
社会人になってからそういった数々の詰めの甘さを露呈してきてしまったのだけど、どう頑張ってもしんどすぎて「こんなことをやってるくらいなら みんなが働いている横で50メートル走を永久に繰り返していたい、そっちほうがパワーを使わないかもしれない、そのままどこか遠くへ走っていきたい」という感じだった。
そういうときの自分はもうダメダメでセミの抜け殻みたいになって真っ白なところにいる。
一方でそうじゃない人を見ると、この人はちゃんと自分の人生を生きてるなーと本当にすごいと思う。
結局 僕は迫ってくる人生に逃げながらだましだまし進んでいるんじゃないか。ときどきそんな気がして、だけど一方で積極的に攻めの姿勢で人生に取り組んでいる人もいるのでやっぱりすごい人もいるもんだ、と感じたりしていた。
役割
まあそんな感じで悩んでいたこともあるのだけど、近頃はなくなった。
むしろ自分の場合は「ちゃんとやらない」を大事にしていったほうがいいんじゃないかとさえ思うほどだ。
めんどくさがりだからこそプログラミングで自動化したり投資で資産を増やすことに興味があるんだし。
それを甘えという人もいれば、わかる人はわかってくれるし、まあ正解はないのでどっちでもいいかな、くらいでしか思っていない。
会社にしたって社長には社長の役割があるし、社員には社員の目的があるし、アルバイトにはアルバイトの理由がある。
地球の運営だって同じで全員が総理大臣になればいいってわけじゃないし、例えばダラダラ小さく暮らしている人がいて それでいいんじゃないだろうか。
働きたい人はいっぱい働いていっぱいお金を稼いでリッチな暮らしでいいし、働きたくない人は小さく小金を稼いでミニマムに暮らす生活もアリだ。
ただ、大事なのは前者が後者をバカにしたり強いたりすることや、逆に貧乏だからといって金持ちを妬んだりするのは違う。
それぞれがそれぞれの生き方を選択できるようになったという雰囲気が当たり前になって、営みを手段として考えるのが一つの解なんじゃないだろうか。
そうしないと偉くなるとか 金持ちになるとか、声の大きい人が正義みたいになってしまいがちだし、全員がそれを目指そうとすると うまくできない人が負の空気をまとってしまいがちになってしまう。
だからといって別に声の大きい人が悪魔なわけでもなくて、それも役割のひとつであるから妬まなくてもいいし 感謝しておけば良いのだ。
ベルリンの壁
東ドイツから西への人口流出が深刻になって国民を閉じ込めるために作られたベルリンの壁だって28年という月日で崩壊した。
外からの強制力で心にフタをして溜まった違和感が爆発すれば、ときにあの分厚いコンリートの壁ですら壊してしまう。
それほどまでの どう猛なパワーを普段から心に蓄えてしまうことは惨劇の始まりでしかないし健康にもよくない。
良い暮らしを追い求めて、自分の心に従って正しいと思う方向に向かって頑張るのは誰しもが持っている自由だ。自分は自分でいい。
いつも心をフラットにして走り続けていたいと思う。