社会人になって何かスキルを習得するとなったとき、教科書のように すぐ正解を求めようとするのをよく見かけるのだけど、それについて感じるのが一言で片付けられる答えはだいたい正解じゃないということに気づいておくべきじゃないかと思う。
僕は高校時代にバスケ部に入ろうか迷ってたことがあって、見学しにいったときにいた顧問の先生に聞いてみた。
「今までバスケをやったことがないけどついていけますかねえ。」
「どうやったらバスケがうまくなりますか?」
ゼロで何もわからない状態のときは こういう質問をしたくなるけど、これでなるほど! となることは ほとんどないんじゃないだろうか。
車の運転で考えてみれば、「この道幅でこの時間帯は40キロで走るべきだ」なんて明確に答えられるはずがない。
白か黒かで物事を決め込もうとしてしまいがちだけど、世の中で起こっている事象にはさまざまな条件で枝分かれして答えが白にもなれば黒にもなる。正解にはもっとグラデーションがあってパチッと一意にピースはハマらない。
明確な答えがあると信じて さらに説明を求めようとしたところで そんなものはなくて、まずは見よう見まねでうまい人を真似してみるほかないのだ。
やがて40キロなのか50キロなのか、はたまた60キロで走るべきなのかと自分の中の答えが見つかる。
よく他人へのアドバイスがうまい人は、小出しで手を差し伸べて、その人が能動的に動くようハンドリングしている。
アドバイスする側は相談者じゃない。だからテクニックを教えたところで役に立たないことは経験則でわかっているからだ。
他人から聞いて役に立つことは、その人が考えてきたことや やってみて成功したことと失敗したこと。もっと大枠の考え方を知る必要がある。
「自分はこうやってみたんですけど あなただったらどう思いますか?」「AとBのどちらが良いと思いますか?」と方向の選択肢が出てくるくらいになって初めて経験者の意見が自分の肥やしとなるということをわかっておくとスムーズだと思う。
そして練習が必要なものは、体系立てて順を追って説明できるようなものではない。
車の運転だったら教習所でいきなり路上に出て、そろりそろりとアクセルを踏んで「もっと踏んでいいよ」と教官に指摘されるところからがスタートだ。
いやいや座学もあるじゃないかと思うかもしれないけれど、それは道路標識の意味や車のアクセル、ブレーキがどこについているか人間が人工的にルール付けたものを覚えるためであって、運転がうまくなることとはまた違う。
結局は車の運転を実践するのがキモなのだ。
物事を習得してできるようになるということは、将来何が起こっても対応できるようになっているということだと思う。なぜなら未来に過去と同じことが起こることはひとつもない。
例えば急に道が狭くなってもどのくらい狭いかなんてわからないし、いつどこで路上へ人が飛び出してくるかもわからない。
経験や練習を重ねるほど頭の中の引き出しが増えていき、必要なときに必要な引き出しがパカッと開くようになっていて、引き出しが多ければ多いほど どんな状況下においても対処できるようになる。こうして初めて独り立ちできる。
だから「どうやったらそれができるようになりますか?」の明確な答え探しに翻弄しているうちは、上達しない。引き出しを増やすという考え方にシフトするべきなんじゃないかと思う。
そもそも体系的に説明できた瞬間、それはロボットがすでにやっているはずの作業なのだから。
効率よく学習するには、聞くよりまずはやってみよう。迷ったときは方向を調節するために、経験者の意見をそこで初めて取り入れるようにするといいよ、という話でした!