戦前の名著「君たちはどう生きるか」が漫画化されたというので読んでみたのだけど、ここに出てくる主人公・コペルが銀座のデパートの屋上から道行く人々をみて、「人間って水の分子のようなものなのかもしれない」と発したシーンが印象的だった。
たしかに普段何気なく見えている世界は自分の目から通して見える一部の世界だ。
だけど今この瞬間も見えないところで何十億人もの人が動いて常に世界を動かし続けていると考えると不思議な気持ちになってくる。
水を肉眼では確認できない深いところまで拡大すると、水素と酸素が結合してできている。
そしてそれは常に物理法則によって動いていて、例えば100℃を越えれば沸騰して蒸発するし、0℃を下回れば凍って塊となる。
周りから得られた条件によって、法則通りに動いていく。
少しカメラを退いて今度は人の足元を歩くアリを見てみれば、これまたエサを見つけたら巣へ運ぼうとする性質を持つ。
道に迷わないよう おしりからフェロモンを出して、他のアリもそれに従って歩くことでそれが行列に見えるという算段で、これまた法則通りだ。
ではカメラをもっともっと後退させて、宇宙から人間の営みを見てみるとどうなるだろうか。
今度は小さい点のような人々の粒が絶え間なく動いている。
街を歩く人、オフィスで仕事をする人、畑で農作業をする人、食べている人、寝ている人、ランダムで動いているようで、人同士でぶつかったり離れたりしながら一定のサイクルで回っている。
自分たち人間ひとりひとりは、地球の大きな流れをつくっている一部にすぎない。
地球を酸素の濃度や温度、色くらいしか認識できないくらい遠くから観察すれば、人類はその地球という箱の中で動く分子の粒にしか見えないのではないだろうか。
そして人は感情によって動いている。
苦しい・辛いという気持ちが起きたらそれを直すために方向を変え、楽しい・心地よいという感情を維持しようとする。
こうして川の流れのように、人が正義と感じるどこかへ向かっていく。
つまりは意地悪をしたり何かを盗んだときの罪悪感、ケンカや別れや病気、死によって苦しくなったり辛いと感じたりするということは、それは人が人であることに反しているということを表しているのかもしれない。
そして飲んだり食べたりすること、新しい発見、自分や他人の成長、人間同士で関わり合うこと、助け合うこと、喜び合うことが楽しいと感じたり心地よくなったりするということは、人間が人間らしくあるために必要なことなのかもしれない。
そして この流れには逆らえない。右往左往ありつつも、結局は人が集まって大きな流れで人間らしいどこかへ向かっていく。
これはさっきの水の沸騰や氷になる物理法則の現象と変わらない。
人は感情があるからこそ相手のことを思いやることができたり感動したりできると言うけれど、それは人間を中心に見ているからであって、逆に宇宙人から見た人類はただの分子であって、ある物理法則に従って運動している。その法則が感情なのかもしれないって見方もあるということだ。
じゃあこの法則性を知ったうえでどうしようとかそういうものでもない。
宇宙の長い歴史におけるただ一端にすぎない自分はこれから何をすればいいのか、どう生きようかと考える一助となるに違いない。そしてこう考えていることもまた大きな流れの中の粒にすぎない。
ただひとつ、これをふまえて自分で考えて動くことは大切なものだ。それは心地よいことなのだから。