「人生の目的とは?」とか「生きる意味って何?」といったことを誰かの受け売りで考えさせられていたり、人生に嫌になったときに考え込んでしまっていないだろうか。
これについて僕が考えていることをおすそ分けすると、人生に意味はない。リラックスしようという話になる。
こないだ公園を通りかかったとき、砂場に子どもが集まっていて「大きい山を作ろう」と言っているのが聞こえてきた。
最初の頃はみんな一斉に砂を一箇所にかき集めていたのだけど、途中から飽きてきて、積み上げた山に木を差し始めたり小石で装飾を始めた。
そのうち山を作ることをやめて、ブランコやすべり台に散り散りになった。
しばらくすると すぐに別の子どもたちが砂山のほうへとやってきて、そこへトンネルを掘り始めたりてっぺんの形を変え始めた。
最初に定義された「大きい山を作ろう」は10分後にはなくなった。
物事を進めていくにつれて、世代交代していくにつれて、最初の目的がなんだったかというのはどうでもよくなってきて いつしか消えるが過去の産物だけは残ってしまう。
社会の掟にしたって、古くからある決め事が時代に合わなくなって今ではただの精神論になってしまっていたりする。
お金だって昔は物々交換を便利にするために生まれた。それが今はお金持ちになりたいとか、それが社会のステータスになったりしている。
山を積み上げれば積み上げるほど、最初の目的は地中深くに隠れて見えなくなってしまう。
とにかく人はご飯を食べたくなるということ、異性に好意を持つようになるということ、新しい知識を吸収したくなるということ、周りから認められたくなるということ。
そんな本能について意味があるのかと言われたら、わかるはずもない。
確かに科学的に考えればご飯を食べなかったら日中に動くためのカロリーが取れないとか、恋愛しないと子孫を残せないとかあるかもしれないけれど、じゃあそれをしていった結果 人間が行き着く先には何が待っているかと言われたら、それは自明な答えが出るはずもないのだ。
身体が求めることにしたがって動いているだけなのに、人生とは何か? という一生答えのない問いに悩まされる。
それはこの社会がこねくり回されてきた結果、結局は山にトンネルを掘り始めたり、木を差し始めたりしていることと同じであって、そんな問いはそもそも的外れの何ものでもないんじゃないだろうか。
もちろん個々が自分の生きているうちに実現したいことを決めるのは自由だ。
だけど、社会全体で「僕らが生きている意味を考えましょう」と言うのはお門違いにもほどがあるし、例えば上司なんかから「オマエは生きる意味についてもっと考えておいたほうがいい」なんて言われたところで深く考える必要なんてない。
人生に意味なんてないのだ。ラクに考えればいいんじゃないだろうか。そして必要のない人間なんて一人もいない。
意味づけは何か達成したい目的があって初めて生まれてくるものだ。
人が生きる意味を考えた瞬間に、それは人間が生存し続けたその先には何か達成すべきものがあるということになってしまう。
本当の目的は神様じゃないとわからない。
僕らの見える範囲の世界でそれを知る由もなくて、人生の意味なんて考えても答えは出ないし仕方のないことではないだろうか。
だからといって何をしても意味がないということではなくて、こうやって生きてるんだから感情があるんだから、それだったらせっかくなら楽しんでおけばいいってことだと思う。リラックスする方向で生きておけばいいんじゃないだろうか。
たとえ意味がなかったとしても、もっと広い世界を見てみたいし、面白いことをたくさん体験しておきたい。
少なくとも誰かに人生はこういうものだって諭されて悩むくらいなら、何も考えずに本能にしたがって動いたほうがよっぽどこの長い歴史の中のキャストの一人として貢献できるんだと思う。
自由に行動はできるけど、本能には逆らえない不自由な地球の運営における歯車の一部でしかないんだし。