会社で働かずに株やらブログやらで生活するようになると、
「普通の生活からはみ出してるー」
みたいなことをときどき言われるようになったのだけど、それから「普通」とか「常識」であるとはなんなのか考えるようになった。
実家は良い会社に入って定年まで勤め上げることが良いことだ、という典型的なサラリーマン家系だったし、田舎で近所付き合いも大事にしなければならなかったから、世の中の常識の波に合わせて渡り歩くというのが当たり前のことだった。
その反動のせいなのかなんなのかわからないけど、普通ってことにあまり良い思い出がなくて、むしろちょっとくらいレールを外れたくらいがちょうどいいんじゃないかと思っていたりする。
というのも実際、常識なんてのは大したものではない。
初めて旅行で海外に行ったとき、昼間からビールを飲んで陽気に歌っている人がいたり、上半身裸で街中をマラソンしている人を見て驚いた。
日本の文化とまったく違ってて、地球レベルで見たらほんとに狭いところに依存して生きてきてたんだなーと感じた。
よく考えてみれば、今なら頭の良い人やコミュニケーションの達者な人がとくに重宝されたりするけれど、戦国時代だったら今よりも剣術が優れた人や、腕っ節の強い人、熱いスピリットを持った人とか運動神経が求められていたんじゃないだろうか。
そして、当時は敵の首を獲ったら英雄だったけど、今は街で刃物なんかを振り回した日には御用である。
方言にしたって日本の右半分が突然 噴火で埋没したら、大阪弁が主流になっていくだろう。
だから、そのときの時代の背景や流れ、居場所によって、多数派の行動が常識として根強くなっていくだけのことであって、今 知っている常識は単なるこの瞬間でしか使えないパスポートみたいなものでしかない。
だから大企業に勤めればいいとか、会社で働くのが普通だとか、お金は我慢して稼ぐものだとか、家と車と家族があれば幸せだとか、今なんとなく考えている常識は、常識であって常識じゃない、なにかふわふわしたみんなの心によって成り立っているようなものだ。そのへんはお金に似ているような気がする。
だからこそ、とくべつ常識に悩む必要はないということだ。
たしかに社会生活を生きるうえではテンプレートにしたがって暮らすことで生きやすくなったり、生きる術として常識が使える部分はあると思う。使えるならどんどん使ったほうがいい。
だけど逆に常識のせいで悩んでいることがあるとすれば、くだらない。
とくに今の日本はみんなの足並みを揃えないといけないほど困窮してない。本当に恵まれている。
だから今の時代や周りの空気に違和感を感じるなーと思ったら、合わせる必要はないのではなかろうか。
それに、そもそもそれくらい人の性質は多様なものなんだし。
昔、ある場所を統治する権力者の家系では、頭が切れる後継者が継いだときはその人に政治を任せ、女遊びが好きな後継者が継いだときは 政治は他の人にまかせて、その代わりに書道や華道といった文芸に力を入れさせていたという話を聞いたことがある。
あと長年続く会社だって、100年にわたって優秀な社長が継ぐとは限らないから数十年に一度だけ大ヒットがあればよくて、あとは現状の維持に努めればそれでいいという話も聞いたことがある。
同じ人は誰ひとりとしていないし、やっぱり人の性質は多様で、いろんな人がいても回るようなシステムでないとうまくいかない。
だから頭がいい人がいてもいいし悪い人がいてもいいし、運動神経がいい人がいてもいいし悪い人がいてもいい。そして常識に従う人がいてもいいし常識にとらわれずに行動する人がいても もちろん問題ない。
常識によって自分の可能性を閉ざすことをせず、どんどん機会をひろって昇華していこう。