「人生 お金が全て」
電話口で叔母はこうつぶやいた。
僕は否定したけど強くは言えなかった。
僕のいとこの母親にあたるその女性は、僕が小さい頃から仲良くしていて、定期的に会う。
だからよく知っているのだけど、田舎で働き口がなかなか見つからず、小さな定食屋でバイトしていてギリギリの生活。これから先、残りの数十年間の未来に期待することもなく つつましく暮らしているらしい。
別に仲が悪いわけでもないのだけど、夫とは別居して暮らしている。まああまり深いことは聞かないほうがいいような気がする。
数年前の夏のこと、仕事がうまくいっていなかったせいか、ストレスで毎晩お酒を飲むようになり、酔っ払って田んぼの横の深い溝に落ちて大ケガで入院したというニュースを僕の従兄弟にあたる息子から聞いた。
前の仕事は辞めることになってしばらく休んでいたものの、また新しい職場をみつけてなんとかやりくりしながら生活しているようだ。
仕事帰りのパチンコが唯一の楽しみらしい。それから会ったときには柄にもなくタバコをふかすようになっていた。
ギリギリの生活の中、ストレスで酒を飲みすぎて大ケガし、仕事を辞めることになり、パチンコとタバコを娯楽に職を転々とする生活。こういっちゃなんだけど完全に出来上がっていた。
そんなことを知っているもんだから、電話先で
「人生お金が全て」
と断言されたときには妙に説得力があって、ああ そうなのかもなあ、と思ってしまったのだった。重かった。
前置きが長くなったけど、「人生、お金が全て」というのは一部で当てはまることがある。
前提として僕はそうじゃないと思う。人生 お金じゃない、というのはこのブログでも書いてきたことだ。
だけどそれはある程度、自力で生活が成り立っていて、そこそこの衣食住ができていて、そこそこ以上の暮らしができているからこそ言えることだと思う。
常にお金に縛られて、あれもできない、これもできないとなると、人生に与えるお金の影響力は大きい。
現に、僕の子供の頃の体験からも、人生お金が全てと言いたくなるのもわかるのだ。
ウチの実家なんてのも昔からお金に困ってて、いつも「お金がないからそれは無理だ」って言い聞かせられてきた。
大学に進学するかどうかって話になったとき、「もし本当に行きたいならお金を借りる準備もできてる」なんてことを言われて、進学させたい気持ちが伝わってきたのはありがたいけど、ウチはお金を借りないといけないくらいお金がないんだ、とショックを受けた。さすがにそこまでして大学へ行こうとは思わなくなったのだった。
それより早く就職して自立したい。家を出たい。東京に出てみたのはそんな気持ちもあった。
小さい頃は当たり前だと思っていたからわからなかったけど、やっぱりウチは貧乏だった。
でもそれが当たり前でそれが貧乏だとは知らなかったから、ある意味幸せだった。
だけどその頃の僕の家族の大人たちは大変だったのかもしれない。
今は子供も家を離れて少し余裕ができたようだ。あの頃のドロドロした気持ちにはもう戻りたくない。
お金でケンカしたり、ご飯が満足に食べられなかったり、勉強したくてもできなかったり、そんなのは困る。
別にお金がいっぱい欲しいとかそんなのはハナっからなくて、ギリギリの生活になってお金で物事を考えないといけない生活が続いたら、やっぱお金は人生に絶対必要だよね、一番大事なものだよね、って実感するものなんだと思う。
「お金が全て」というたった一言は、人によって重みが何十倍も違うんじゃないかな。
お金がなくて人生の大事なイベントが思い通りにできないのは悲しい。人生は不平等だ。そりゃそうだ。
考えてみれば生まれたときから顔や体格は人によって違うし、住んでいる国や地域、家が貧乏か裕福かという初期値はあらかじめ決まっているのが当たり前なんだから、人生の難易度がイージーモードになったりハードモードになったりするのも当然だしそういうものだ。
貧困な国で生まれると、毎日ギリギリの食費を稼ぐために小さい子供が今日も働きに出ている。根深いものになってしまうと このサイクルの中で生まれた子供は、子供自身で現実を変えられない。
ハードモードに生まれてしまうと、また次の子孫もハードになってしまう傾向は事実としてある。
日本の狭い範囲だけで見てみても、親がみんないい大学を出ていい大企業に勤めていれば子供もそれが当たり前だと思うし、教養を大事にしている一家は勉強が当たり前になるし、自営業を営んでいれば実家を継ぐことを考えるし、親が勉強していなければ子供も勉強しない傾向になる。
その環境が当たり前だと、それに落ち着くことしかわからない。
貧困もおなじだ。それが当たり前だと自分もそうなるのが普通だから、勉強も人脈も経験の重要性も、知るだけで得する情報がたくさんあることも、そもそも眼中に入ってこないのだ。
この貧困のサイクルから抜け出す方法はあるんだろうか。
ずっと貧困で暮らしていると、貧困が当たり前になる。そして貧乏な考え方がまた貧乏にしていき、それは子供へと受け継がれ、貧乏な生活は貧乏なまま継続していく。
実際に僕も裕福な家庭や、都会は、一部のすごい人たちで作られているもので、まぼろしみたいなものだと本気で信じてた。
だけど今はそうは思わない。幻想でも空想の世界でもなんでもなく、裕福になることは誰にでも与えられている権利なのだ。
ときどき思う。
どうやったら みんなそこへ行くことができるだろう、誰にでも行く道はないのだろうか、それとも変えられないものなのか、変えないほうがいいのだろうか。
幸い僕が恵まれていたのは好きなものに対する執着心がすごかったということだ。
お年玉でパソコンを買ったことが人生を変えた。中学生のときにコンピューター関係の仕事をしたいと将来の夢に書いてたのを覚えてる。
それから数年後、プログラミングを仕事にしていた。
変えたきっかけは本当に好きなものと、そしてそれによって将来のなりたい自分像ができて、それを実現するために周りの反対を振り切って、当たり前になってしまった環境を飛び出したからだ。
それから大手からベンチャー会社へ、そして独立という流れになるのだけど、その間にも周りの反対はあったし、そんなことしてて大丈夫なのかって声もあった。心配してくれるのはありがたいことだけど。
だけどそうやってきて結果的に感じたことがある。
少しくらい道を外れても、恥ずかしいことがあっても、みんなが反対しても、何かを変えるときやドロドロした沼から抜け出すときには、必ず反発に対抗していかなければならないことだってある。
お金はプライドなんかじゃ稼げない。
もしなにか辛かったり、もっと幸せになりたいと考えているとしたら、今が当たり前だと思わないこと、やりたいことは自分でも実現できることを知るいうこと、居場所を変えることが大事なんじゃないかな。
今はインターネットがあるから、普段、自分の周りでは出会うことのできない人や考え方を知ることは昔より簡単になった。
だから遠慮なく疑ったり、学んだり、外の世界を見たり、働いたりして、どんどん稼ぐことを目指せばいいと思う。
いつしか勉強の仕方を覚えて、自分で調べたことが小さな結果につながって、運良く成功体験が得られたら、自信につながる。
そこからできた余裕が貧困のサイクルを止めるきっかけになるはず。
一人ひとりに、もっときっかけが増えればいいなと思う。