3年ほど前から仕事したくない、辛い、辞めたいという話をよく聞くようになった。

最近 同世代と飲むと、

「働かずに楽して暮らす方法はないかなー」

と言って仕事に疲れ切って消耗している人に出会うことがよくある。というより大抵なのだけど。僕もそうだった。

 

自分の周りだけなのだろうか。いや、いろんな人に会ってきたからそうじゃないと思う。

周りの状況が変わっているのか、自分が今まで見えてなかっただけなのか、この人は楽しそうに働いてるなー、生きてるなーって人は3年ほど前からめっきり見なくなった。本当に暗くなっていく。

 

あんなにふざけてゲラゲラ笑っていた人が、社会人数年を経て久しぶりに会うと、良くも悪くもそれなりにちゃんとしちゃって、消極的になっていたのが印象深い。

ほんとにこういうことが最近しょっちゅうある。日本の未来はどうなるだろうか。

 

これについて思うことは、働くことに対してもっとラクに考えたらいいんじゃない、ということだ。

 

小飼弾さんの著書「働かざるもの、飢えるべからず。」で、

「社会は人のためにあるのであり、人が社会のためにあるのではない。」

と綴られていたり、ブログや本を書いている pha さんという方も、ときどきそれについて言及しているのだけど、僕もまったくそうだと思う。

 

「鶏が先か、卵が先か」というジレンマのように、そもそも「仕事が先か、人が先か」と言われたら、それは間違いなく人だし、仕事のために人があるわけじゃないという考えだ。

 

それなのに今の日本では、この便利になってしまった社会システムを維持するために、仕事が先だ、という風潮が色濃くあるのが現状である

国民みんなでバカでかい「仕事」「社会」と掘られた大きな氷を壊さないように、頭の上に持ち上げていて、誰かがちょっと力を抜けば、あいつはダメだの、食うべからずだの、ラクして稼いでたら悪いだの言われる始末。

 

それでは体調も悪くなるし、先も暗くもなるよなあというところで考えるのをやめた。

 

 

僕はあんまり海外に行ったことがないのだけど、数年前にようやく友人と初めてグアムに行った。

周りは観光客の日本人だらけで、どこへ行っても日本語が通じる観光用の地域ですら、なんだ、ここは楽園かと思った。

明るくてのんびりしていて、いい感じの適当さ加減が心地よくて、ちょっと人間に近づいた気がする。

 

こうやって他の世界に来ると、日本の常識なんてたかが知れてるし、そもそも今の常識なんて高度経済成長にできたほんの数十年のことでしかないということが実感できる。

そして同じように今できた新しい常識も、せいぜい数十年しか持たないだろう。

 

今ある普通のことは ほんの一瞬のきらめきで、今この瞬間に消耗してるのはなんてバカらしいことだし不思議なことだろう、と素直に思ってしまった。

別に人生 仕事がすべてじゃないからこそ、ガマンして働くのが悪いわけじゃない。

でももし仕事が嫌なものだとするのならば、もっと簡単にゆるく考えても良いものだよ、ってことをまずは言いたい。

 

そんなこと言ってたら、みんな我慢して働かなくなったら回らなくなるってツッコミが飛んでくるかもしれないけど、それは違う。

自分のやりたいことは言われなくてもやりたくなる。所詮そんなもんだと思う。

そうしないと狩りをしていた時代から、今の生活は出来上がってないからだ。

 

例えばキャンプをイメージしてみたら、みんなご飯を炊いたり肉を焼いたり、釣りに行ったり、遊んでいたり、おのおの好きなように活動してても、夜になればなんとかご飯にありついて、結局楽しめる。そういうものでいいのだ。

もしもそうじゃなくて、外に出たくない人が集まってキャンプをしてても楽しくないどころかケンカになるだけだ。

そんなキャンプはそもそもなくていい。

 

現実的に考えれば、しがらみはあるし、自分一人でできる限界もあるだろう。それに既存のものをいきなり真っ白にすることはできないわけで、だけどまずは自分が楽しく生きることを考えられるようになったら次に繋がるのだと思う

 

今日は疲れてるからちょっと休んでみようーくらいでちょうどいいんじゃないかな。