年下と飲みに行ったりご飯に行ったりすることがあると、年齢が離れれば離れるほどどうしても価値観や観念が食い違うようなことが起きる。
そんなとき、
「どう間違ったらそんな考え方になるんだろう?」
「なんでそんなこともわからないんだろう?」
なんて心の中で感じることもあると思う。僕もある。
単純に年下の相手が未熟で成長すれば変わっていくこともあるんだけど それだけじゃなくて、よーくよーく考えたら単純に年上の自分の見える世界が狭いだけにすぎないことも結構多い。
(体の衰えみたいな年齢を重ねないと絶対に見えてこない世界もいくらでもあるけど。)
戦時中と戦後と、リーマンショックのときと、ITバブルのときに生まれた人だったらどう考えても見てきた世界や味わってきた経験のカテゴリは違うし、明らかにおかしいと思うことでも実は相手にとっては当たり前で、なんら普通のことであるということも往々にして起こるものだ。
しかしそんなときに自分の過去に見てきた世界があまりに平常運転だと思うものだから、「最近の若者はダメだ」なんてことになってくるわけだけど。まあそれはそれで仕方ない。
小学生のときですら休み時間になると上級生がやってきては、授業後の黒板を見て
「まだ授業がラクでいいな〜」
なんて言われた記憶があるし、僕が6年生になったときに同じことを1年生に言ってた気がする。
まだポジションが定まっていない10歳前後の世界だって、年長者が年下に「今どきの若いやつは」ごっこをやってるんだから、いくつになっても いつの時代になっても どこの場所にいっても同じようなことが繰り返されていくのだろう。自然の摂理である。
小説家のダグラス・アダムズ(Douglas Adams)は、テクノロジーのライフサイクルについて次のように述べている。
1) 自分が生まれる前からすでに世の中にあるものは、すべてごく普通のものである。
2) 生まれてから30歳になるまでの間に発明されたものは、すべて途方もなく刺激的で創造的であり、運が良ければそれが一生の仕事になる。
3) 30歳以降に発明されたものは、すべて物事の道理に反していて文明の終末の予兆である。ただしその後、それが身の回りにあって10年ほど経つうちに、徐々に問題ないものであるとわかるのだが。
ちなみにこの本で初めて上の言論に出会いました。
年を食うにつれて蓄積が積み上がってくると、何が美味しいのか面白いのか、手を出さないほうがいいものかがある程度わかってきて、だからこそリスクを負ってわざわざ冒険しようという気にはならないのも無理はない。
昔のもののほうが確実で安心感があって、「やっぱ昔はよかったなあ」なんてことを言いながら、テレビも漫画も音楽も映画も場所も人のつながりも変わらず、昔に培ったものでやりくりしていくほうが楽しいのだ。そんなものである。
だからそう考えると、たまに若者や新しいものを自然に受け入れられる大人がいて、それは自然と真逆の力を加えないとできないことで偉大だなーと思う。
そんな大人たちのように、10年後や20年後の自分も適度に新しいものを受け入れる心を持っておきたい、いつも革新的なものに対して面白がっておきたい、好奇心を止めないようにしたいなと思う。